第66回菊池寛賞
2017年日本民間放送連盟賞〈特別表彰部門/放送と公共性〉最優秀賞
『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』の東海テレビ放送が半世紀以上も取材を続ける昭和最大級の事件=ミステリー〈名張毒ぶどう酒事件〉。
戦後唯一、司法が無罪から逆転死刑判決を下した本件の被疑者・奥西が無念の獄死を遂げた今も、その真相は村人の沈黙のなかに眠っている。
およそ50年にわたり取材を続け、その蓄積を代々受け継いできた東海テレビ取材班の渾身の1作が今、スクリーンに。
あなたには、本件、どのように見えますか?
平成の終わり、未だ謎に包まれた
昭和のミステリーを揺り起こす
三重と奈良にまたがる葛尾。昭和36年、村の懇親会で女性5人が死亡した。ぶどう酒に混入した毒物による中毒死。事件から6日後、逮捕された奥西勝が犯行を認める。当時35歳。「妻と愛人との三角関係を清算するためだった」と自白した。すると不思議なことに、村人たちは奥西の犯行を裏付けるかのようにパタリパタリと証言を変えていった。だが迎えた初公判で、奥西は一転無罪を主張。自白は「強要されたものだ」と訴えた。一審は無罪。しかし二審では死刑判決、そして最高裁は上告を棄却。昭和47年、奥西は確定死刑囚となった。事件が起きた公民館は取り壊され、村人は奥西家の墓を掘り返して畑のなかへ追いやった。奥西は独房から再審を求め続けたが、平成27年10月、帰らぬ人となった。享年89歳。八王子医療刑務所で独り、無念の獄死だった。
名張毒ぶどう酒事件————戦後唯一、司法が無罪から逆転死刑判決を下したこの事件。57年が経った今もなお、多くの謎がある。決定的な物証の不在、自白の信憑性、二転三転した関係者の供述。そして、なぜ司法は頑なに再審を拒むのか。その謎に挑むのは、『ヤクザと憲法』『人生フルーツ』の東海テレビ放送。ナレーションはかつて奥西勝を演じた仲代達矢。平成最後の春に放つ、渾身のミステリー。東海テレビドキュメンタリー劇場第11弾。
「名張毒ぶどう酒事件」をめぐる謎―――
自白は本当か?
奥西は逮捕後、「妻と愛人との三角関係を清算するため、公民館で一人になった隙に、ぶどう酒に農薬のニッカリン T を入れた」と自白している。しかし、一審の無罪判決後の会見で「警察官が原稿を書くからそれを覚えて言うようにと言 われ、自分の意志ではなかった」と話している。また、公民館でぶどう酒にニッカリン T を入れるという肝心な場面の時 期や状況について自白がころころと変わっている。
犯行機会は“10 分間”?
事件があった日の午後 5 時 20 分ごろ、村の会長宅から公民館にぶどう酒を運んだ奥西。
死刑判決では「奥西が公民館で 1 人になった 10 分間以外に犯行の機会はない」としている。しかし、事件当初、ぶどう 酒の運搬に関わった村人の供述では、会長宅にぶどう酒が届いたのは、午後 2 時 15 分ごろ。つまり、会長宅に 3 時間近く も置かれたことになっている。
しかし奥西の逮捕後、関係者の供述は一斉に変わり「ぶどう酒が届いたのは奥西が来る直前」となった。一審の無罪判 決ではこの供述は「検察の並々ならぬ努力」によって作られたものだとしている。
唯一の物証「王冠」
奥西はぶどう酒の王冠を「歯で噛んであけた」と自白。公民館の火鉢から発見された王冠の傷が奥西が検証のため噛ん だ王冠の歯形と一致するというのが死刑判決の最大の根拠となった。しかし、歯形の鑑定写真はあたかも一致するように 見せるため、操作して作られたものだった。
事件で使われた農薬
自白では「ぶどう酒に農薬のニッカリン T を入れた」としている。しかし、成分を調べてみると、ぶどう酒にニッカリ ン T を混ぜた際に生成される成分が、飲み残りのぶどう酒からは検出されなかった。つまり、ニッカリン T ではない別の 農薬が混入された可能性がある。弁護団は第 7 次再審請求でこれを指摘し、再審開始の決め手となった。また、ニッカリ ン T には「赤色」がつけられているが、村人が飲んだぶどう酒は「白色」だった。
DIRECTOR’S NOTE ―――鎌田麗香
名古屋から車で1時間半、名張川に沿って山道を走る。脇道の坂を上った小さな集落が葛尾だ。くねくねと曲がる坂道を上るたびに緊張し、誰とどんなことを話そうか頭の中でシミュレーションする。取材クルーは歓迎される存在ではない。しかし、事件から半世紀以上が経った今、最後のチャンスを逃すわけにはいかなかった。
東海テレビはこれまでに6回、様々な視点で、ディレクターを変えながらドキュメンタリーを制作してきた。第一弾はいわゆる10分間問題に焦点を当て村人を取材した「証言」。再審開始決定後は「重い扉」「黒と白」「毒とひまわり」と毒物や自白の問題を取り上げた。そして奥西勝さんの生涯を描いた「約束」や「ふたりの死刑囚」と続いた。取材を続けて約40年だが、その間に奥西さんも亡くなり事件関係者も少なくなった。さらに審理が進まず取り上げるテーマも少ない。次回作るドキュメンタリーが名張シリーズの最後かもしれない…社内ではそんな雰囲気が漂っていた。では最後に作るなら?そう思った時、真っ先に「村に帰ろう」と決めた。「証言」は名張シリーズの原点であり、東海テレビの報道の礎となったのだから、その熱意を受け取る形で取材をしたかった。「証言」を制作したのは弊社OBでこの映画の監修を務める門脇康郎。奥西さんが1人になり毒物を混入したとされる10分間の矛盾を浮かび上がらせるため、何度も村に通って取材をした大先輩で、70歳を過ぎた今でも現役で取材活動を続けている超人である。そんな門脇に葛尾のことを教えてもらいながら、そして時に一緒に現場に入り取材することになった。
村での取材期間はトータルで2年ほど。葛尾=名張毒ぶどう酒事件の代名詞となっているから「閉鎖的な怖い村」というイメージがついて回る。村の天気もなんだか常に悪い気がする(実際はそうでもない)。しかし、そんな先入観を一度取り払って村人と接しようと決めた。「若い女の子が何も知らずに村に立ち入った」という感じで、畑や庭の仕事をしている村人に気軽に声をかける。今の時季は何の野菜が育つのか、名張で美味しいものは何か…など他愛もない会話をするようにした。伊賀上野地方では、玄関先に応接セットがある家が多い。仲良くなると玄関先に招かれお茶を飲みながらゆっくりおしゃべりする。次第に遠い親戚のような関係になっていった。村人は純朴で、話好きで、とても勤勉だ。そして坂の多い場所に住んでいるからか、とても我慢強い。私はこの村の人たちが大好きになっていった。しかし一方で、真面目な人柄こそが冤罪を生む要因では ないかと思うようになった。一人ひとりには多様な考えがあるにも関わらず、村人たちは「組織を守る」ことに重きを置き、結局、検察という巨大な組織を前に「供述を変える」という安易な道を選んでしまったのではないか。そして時間の経過とともに、沈黙こそ正義となっていったのだ。
外部の人は葛尾の人間のことを悪く言うが、こうした出来事はどの組織でも起こりうると思う。組織は個人の集まりであるにも関わらず、組織の枠にとらわれすぎて何もできない。「おとなしくしていれば、組織の温かい場所にいられる」…そんな病巣のようなものがどの村にもはびこっているのではないか。村が居心地の良い場所であればあるほど、病巣は大きくなるような気がする。しかし、そこに被害者がいることを忘れてはならない。名張事件の場合は奥西勝さんとその家族だ。妹の岡美代子さんは90歳近くになっても穏やかに暮らすことができない。被害者の気持ちを思い、声を上げられる個人でいられるか…大なり小なり組織に所属している私たち一人一人に問われている。
私は東海テレビという村にいます。皆さんのいる村はどんなところですか。
PRODUCTION NOTE ―――齊藤潤一
「与田が投げれば、なんとかしてくれる」
6年連続でBクラスが続いている我が中日ドラゴンズの監督に与田剛氏が就任した。現役時代は157キロの剛球でドラゴンズのリリーフエースとして活躍。8回まで勝っていれば、残りの1イニングは与田が抑え、勝利をもたらしてくれた。しかしケガに泣き、わずか6年でトレード、ドラゴンズを去った。
野球は「先発」「中継ぎ」「リリーフ」の継投が命。「先発」がゲームを作り、「中継ぎ」が試合を壊さず、「リリーフ」が完成させる。打者がいくら点を稼いでも、継投を失敗するとゲームが 崩れる。名張毒ぶどう酒事件の報道も野球の継投に似ている。
「シリーズの最後は村を描きましょう」。そう提案したのは、リリーフの鎌田麗香(33)。前作の「ふたりの死刑囚」を完成させた直後だった。奥西勝死刑囚が獄中死したため、次の作品を名張事件シリーズの最後にしようとスタッフで決めていた。
それからさかのぼること40年前、シリーズの先発は現在75歳の門脇康郎だ。冤罪を特集する本を読み、「この事件はおかしい」と考え、名張事件を調べ始めた。電車とバスを乗り継ぎ4時間かけて三重県名張市の事件現場に何度も入り、村人や奥西の親族、捜査関係者らから話を聞いた。当時、門脇は制作番組のスタジオカメラマン。取材は業務として認められず、休みを返上して取材に当たった。
奥西が逮捕され、事件は終わった村。村人はみな口を閉ざしたが、門脇は粘り強く取材を重ねた。そして10年後、念願の報道局に異動。犯人を絞り込むうえでカギとなる村人の証言の変更を追及した「証言〜調査報道・名張毒ぶどう酒事件」(1987年)を完成させた。しかし放送後、門脇は他の部署に異動。第5次再審請求の棄却により報道現場も冷え込んだ。テレビ局は人事異動で頻繁に人が入れ替わるため、1つの事件を継続して取材し続けるのは難しい。東海テレビも20年近く、継投する記者は出なかった。
「名張事件のドキュメンタリーを作りなさい」2005年5月、私はプロデューサーの阿武野勝彦から指示を受けた。37歳の時だった。その直前に奥西死刑囚に再審開始決定が出され、半世紀近くを経て釈放される可能性が出ていたのだ。私は名張事件の知識はほとんどなく、当時、事業局にいた門脇のもとを訪ねた。
「引き継いでくれる後輩が出来て嬉しい」それが先発門脇の第一声だった。裁判資料や当時の新聞記事を受け取り、事件現場を訪ね、私は奥西死刑囚の無実を確信した。様々な取材を重ね、完成させたのが「重い扉〜名張毒ぶどう酒事件の45年」(2006年)。先輩が下した判決を覆そうとしない裁判所や自分たちに不利な証拠を提出しない検察を批判した。
放送から半年後、名古屋高裁は再審開始決定を取り消し。信じられなかった。その時、奥西死刑囚の無実が晴れ、拘置所から出てくる姿を撮影するまで事件を追い続けようと決意した。
それから、自白と冤罪の親和性を追求した「黒と白〜自白・名張毒ぶどう酒事件の闇」(2008年)、弁護団長を追いながら事件の真相を解き明かす「毒とひまわり〜名張毒ぶどう酒事件の闇」(2010年)、事件をドラマ化した「約束〜名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」(2012年)を制作。この間、名張事件の再審は棄却や差し戻しを繰り返した。
2012年7月、私はニュースの編集長を務めることになり、取材が出来なくなった。最高裁の決定が近く、再審開始決定が出れば、今度こそ奥西死刑囚が釈放されるかもしれないという期待が高まった時期だった。私が後継に指名したのが鎌田麗香。警察担当記者としてスクープを連発していた若手女性記者だ。鎌田は袴田事件の袴田巌氏の日常を密着することで、塀の中の奥西死刑囚の心情や苦しみを表現した「ふたりの死刑囚〜再審、いまだ開かれず」(2015年)を制作した。しかし放送の3か月後、奥西死刑囚が89歳で獄中死。結局、無罪釈放された姿は撮れなかった。
「最後にもう1作だけ制作しよう」鎌田と約束して制作したのが今作「眠る村」。事件から57年が経過し、証言を変更した村人はいま、事件について何を語るのかを知りたかった。案の定、事件を早く忘れ去りたい村人の口は重い。鎌田は持ち前のガッツで何度も村に通い続けて、村人との人間関係を築き、7作目のドキュメンタリーを完成させた。
名張事件シリーズはディレクターだけではなく、カメラマン、編集マンも先輩から引き継ぎ、同じスタッフが担当を継続している。番組のナレーションも「証言」の佐藤慶さんから始まり、渡辺いっけいさん、原田美枝子さん、そして「毒とひまわり」「ふたりの死刑囚」「眠る村」の3作は 仲代達矢さんが継投。「約束」では奥西役を演じた。
名張事件の再審は奥西死刑囚の妹が引き継ぐことになった。司法との闘いは延長戦に入ったのだ。時間を引き伸ばし奥西の死を待った検察と裁判所。事件を闇に葬ったこの事実は後世まで伝えていかなければならない。それが私たちの役目だと思い、今作で終わることなく、延長戦に挑むことを決意した。
ドラゴンズの与田監督。記者から来季のリリーフは誰かと問われ「やりたいと思う人に手を上げて欲しい」と答えた。東海テレビのリリーフ鎌田は2018年8月に第1子の女児を出産し現在、育児休暇中。そろそろ次の継投を考えなければならないが、鎌田には赤ちゃんを抱っこしながら村に入って欲しいと伝えている。
「鎌田ならなんとかしてくれる」
『眠る村 SLEEPING VILLAGE』2018年/日本/96分
ナレーション:仲代達矢
プロデューサー:阿武野勝彦
音楽:本多俊之 音楽プロデューサー:岡田こずえ
撮影:坂井洋紀 音声:福田健太郎 オーサリング:山口幹生
音響効果:柴田勇也 TK:須田麻記子
編集:奥田繁
題字:山本史鳳
監修:門脇康郎
監督:齊藤潤一、鎌田麗香
製作・配給:東海テレビ放送 配給協力:東風